天台宗総本山 比叡山延暦寺について
比叡山は古代より「大山咋神(おおやまくいのかみ)」が鎮座する神山として崇められていましたが、この山を本格的に開いたのは、伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)上人(766~822)でありました。最澄は延暦7年(788年)、薬師如来を本尊とする一乗止観院(いちじょうしかんいん)(現在の総本堂・根本中堂)を創建して比叡山を開きました。
最澄が開創した比叡山は、日本の国を鎮め護る寺として朝廷から大きな期待をされ、桓武天皇時代の年号「延暦」を寺号に賜りました。
最澄は鎮護国家の為には、真の指導者である「菩薩僧(ぼさつそう)」を育成しなければならないとして、比叡山に篭もって修学修行に専念する12年間の教育制度を確立し、延暦寺から多くの高僧碩徳を輩出することになりました。特に鎌倉時代以降には、浄土念仏の法然上人、親鸞聖人、良忍上人、一遍上人、真盛上人、禅では臨済宗の栄西禅師、曹洞宗の道元禅師、法華経信仰の日蓮聖人など日本仏教各宗各派の祖師方を育みましたので、比叡山は日本仏教の母山と仰がれています。
比叡山延暦寺の最盛期には三千にも及ぶ寺院が甍を並べていたと伝えていますが、延暦寺が浅井・朝倉両軍をかくまったこと等が発端となり、元亀2年(1571)織田信長によって比叡山は全山焼き討ちされ、堂塔伽藍はことごとく灰燼に帰しました。
その後、豊臣秀吉や徳川家の外護や慈眼(じげん)大師天海大僧正(1536~1643)の尽力により、比叡山は再興されました。さらに明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の苦難を乗り越えて現在に至っております。
龍泉寺と天台宗
庄内川中流域やその周辺の地域(春日井市・守山区・北区の一部)では、遠く平安の昔から天台の教えが栄え、その大きな影響は今日に及んでいます。この地方最大の天台本山であった密蔵院や、尾張四観音の一つである龍泉寺を始めとして多くの天台寺院がありました。現在区内にあるのは龍泉寺と石山寺のみで、廃れた寺には桂星寺(大森垣外 明治年間に廃寺)と白山寺(守山村 明治初年に廃寺)がありますが、それ以外にもかなりあったと考えられています。
沙石集の中の龍泉寺観音信仰
鎌倉時代の僧、無住一円によって書かれた仏教説話集である沙石集によると、龍泉寺は密蔵院の末寺となる以前に、すでに観音信仰の霊場として知られていました。観音様には人々を病苦や災難から救う力があること、それが来世だけでなくて現世にも働くということが当時の人々に信じられていたからです。さらに、尾張龍泉寺は昔龍王が一夜のうちに造立した寺で、馬頭観音がでた池の跡が見えると書かれています。そしてその霊仏を信じて多くの人が集まり、毎月18日に観音経33巻を読んで供養していたということです。沙石集のこの記述は近世にまとめられた同寺の縁起の原型になったといえます。